「実践の中のジェンダー」小宮友根 p20 p21

メモメモ
「実践の中のジェンダー」小宮友根
p20 p21
バトラーの主張に即して言えば、「社会的構築」という思考が「自由意思/決定論」という土俵を呼び込むものである限り、その思考は、「どこまで自由なのか」あるいは「どこまで(生物学的ないし社会的原因によって)決定されているのか」という問いのもので、因果説明という議論様式へとコミットせざるをえない。その結果、生物学的説明に包摂されてしまうのであれば、「構築」という言葉で「性現象の社会性」を思考することには、たしかに「制約」があると答えるだろう。そこでは結局、「社会性」と呼びうるものは何も残らないかもしれないのである。

>だが、「性現象の社会性」について考えることは、性差を社会的原因によって説明することにつきるのだろうか。もしバトラーが上述したような思考上の「制約」を越えるために「パフォーマティヴ(行為の遂行)」という考えを必要としたのなら、そこには性差の原因を問うのとは異なった水準で「性現象の社会性」に着目する視点があったはずだ。