小宮友根 「実践の中のジェンダー」より

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2019年7月21日

さかしょう @sakasyou0875@mstdn.jp
メモメモ
「実践の中のジェンダー」小宮友根
p31

>バトラーのパフォーマティヴィティ概念は、根拠が不十分なまま規範理論化されたり、あるいは認識論的主張として理解されたりしてしまえば、ジェンダー概念に対するそのインパクトが見えなくなってしまう。それに対して、アイデンティティや身体について、私たちが言語カテゴリーを用いた行為記述とともにそれらを理解し、多様な社会生活を営んでる様子へと注目する概念だと理解されるなら、その社会生活の実際を記述することで「性現象の社会性を」あきらかにする道筋が開ける。

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2019年8月13日

さかしょう @sakasyou0875@mstdn.jp
メモメモ
「実践の中のジェンダー」小宮友根
p30 p31

>なにより、私たちが性別にかかわる多様なアイデンティティを帯びるのは、そうした社会生活の中でのことにほかならない。その意味で人間社会の中で性別という属性が持つ意味は、たしかに「行為をとおして構築」されている。であるなら、さまざまな概念の連関をたどり、その連関に規制された実践の中で、私たちがどのようなアイデンティティを帯びるのかをあかるみに出していく作業は、性差の原因をめぐる語りとは異なった平面で、「性現象の社会性」について語る方法となるはずだろう

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2019年8月13日

さかしょう @sakasyou0875@mstdn.jp
メモメモ
「実践の中のジェンダー」小宮友根
p29

>社会成員自身による行為記述との関係に十分注意が払われないまま被説明項としての行為を研究者が定義した上でその因果説明を与えるような議論は、社会成員自身による行為記述こそが人間社会の本質的な構成要素であるという重大な問題の上を、いわば論理的に素通りしてしまう

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さかしょう
@sakasyou0875@mstdn.jp
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メモメモ
「実践の中のジェンダー」小宮友根
p20 p21
バトラーの主張に即して言えば、「社会的構築」という思考が「自由意思/決定論」という土俵を呼び込むものである限り、その思考は、「どこまで自由なのか」あるいは「どこまで(生物学的ないし社会的原因によって)決定されているのか」という問いのもので、因果説明という議論様式へとコミットせざるをえない。その結果、生物学的説明に包摂されてしまうのであれば、「構築」という言葉で「性現象の社会性」を思考することには、たしかに「制約」があると答えるだろう。そこでは結局、「社会性」と呼びうるものは何も残らないかもしれないのである。

>だが、「性現象の社会性」について考えることは、性差を社会的原因によって説明することにつきるのだろうか。もしバトラーが上述したような思考上の「制約」を越えるために「パフォーマティヴ(行為の遂行)」という考えを必要としたのなら、そこには性差の原因を問うのとは異なった水準で「性現象の社会性」に着目する視点があったはずだ。

2019年8月13日 10:42 · Web · 1 · 0 · 0 · Webで開く
2019年8月31日

さかしょう @sakasyou0875@mstdn.jp
メモメモ
メモメモ
「実践の中のジェンダー」小宮友根
p66
前章で示唆した通り、問いのレリヴァンスを現実の行為の場面に差し戻すならば、行為と集合的秩序との関係を異なったしかたで考察できるようになるだろう。

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2019年8月31日

さかしょう @sakasyou0875@mstdn.jp
メモメモ

レリヴァンス

https://mstdn.jp/@sakasyou0875/102711968296915457

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